日本軍政下ジャワの華僑の歴史経験に、新聞資料を通じて迫る(1)
1942年3月から45年8月にかけ、日本軍はオランダ領東インド(現インドネシア)の政治・経済の中心地ジャワを占領し、軍政を敷いた。そのジャワには、当時70万人あまりの中華系住民(以下、当時の用語法にしたがい「華僑」)が暮らしていた。
アジア太平洋戦争が勃発するはるか前から、日本は中国大陸で戦争を繰り広げており、その文脈では東南アジア各地に暮らす華僑らは、日本軍の眼には潜在的な「敵性人」として映った。ジャワを占領下においた日本軍(第十六軍)は、すぐさま「外国人居住登録制度」を導入する。これは、17歳以上の「外国人」に期日内に居住登録を行うよう求める制度であったが、その対象とされたのは、旧宗主国のオランダ人を中心とする「欧米人」、それに日本人といわゆる原住民を除く「アジア人」であった。このうち、後者の圧倒的多数を占めていたのが華僑であった。登録に際しては、日本軍に対する忠誠を宣誓したうえで、華僑を含む「アジア人」であれば男性は100ギルダー、女性は50ギルダーの登録料を支払うものとされた。ちなみに100ギルダーというのは、当時の公定価格で白米1.1トンを購入できるという途方もない額であった。

【写真1】バタヴィア市庁舎で外国人居住登録をする華僑たち(右)[『共栄報』華語版1942-04-22]

【写真2】「外国人居住登録宣誓証明書」の例(表面)

【写真2】「外国人居住登録宣誓証明書」の例(裏面)
上の写真2 は、1962年6月にプカロンガン(Pekalongan)州トゥガル(Tegal)県(現中ジャワ州トゥガル県)で発行された「外国人証明書」の例である。登録したのは、同県スラウィ(Slawi)生まれの55歳の華僑女性であり、登録料50ギルダーを支払済みであることが分かる。
この「外国人証明書」で最も興味を引くのは、国籍欄に「Tjina Indo(チナ・インド)」と記されている点であろう。このうち「インド」というのは、現地人との混血、ないしは現地生まれ現地育ちであることを指す概念であり、上述の「僑生(Peranakan)」と同義ある。一方の「チナ」というのは、マレー海域世界において中華系出自の人たちを指す概念として広く用いられて来た語である。ただし、20世紀初頭以来インドネシアの地で中華ナショナリズム運動が盛り上がりを見せる過程で、この「チナ」という語は自尊心を傷つける語として当事者の間では忌避され、代わりに「中華」の福建語読みである「ティオンホア(Tionghoa)」の語が好まれるようになっていた。