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横浜中華街・歴史研究と社会還元

伊藤泉美
中華街1920年頃伊藤泉美所蔵

〇一枚の絵葉書から

これは今から100年ほど前、1920年頃の横浜中華街の写真である。大通りではなく、現在の南門シルクロードで、当時は「本村通り」(ほんむらどおり)と呼ばれていた。通りの両側には店が建ち並び、さまざまな看板が掛かっている。左手前から見ていこう。「金花」の字がなんとか読めるのは、洋菓子店の金花堂である。続いて、音叉マークの「PIANO MAKER」の看板は、123番地の周興華楽器店、周ピアノである。その奥にはソーセージ屋の「JACOB BELTE」、その下には暗くて見にくいが、「GLOBE SALOON」の看板がある。その先には籐椅子店の「HOUNG LEE」(鴻利)、 カバン店の「S.KOMIYA」(小宮)の看板がかかる。

通りの右側はどうだろうか。手前2階の看板は半分切れているが、106番地の「F.SUZUKI」(鈴木理髪店)、その下の「TOILET PAPER」とあるのは鈴木紙店だ。また、この写真では判読しがたいが、階下の店舗にはロシア製靴店の意味のロシア語の文字が書かれている。その隣は中華料理店の「東坡楼」だ。その先には、籐椅子店や英語とロシア語で書かれた洋食店の看板がある。さらに奥には「LION DISPENSARY」(ライオン薬局)の看板が掛かっている。

この絵葉書で注目すべきことは二つある。一つは、英語の看板が多いことだ。日本のチャイナタウンなのに、なぜ英語の看板が多いのだろうか。それは、中華街を含む山下町は1899年まで横浜外国人居留地であり、山下町のオフィスと山手の自宅を行き来する欧米人は頻繁にこの通りを行き来した。そのため、洋菓子店、ソーセージ屋、薬局、かばん屋、籐椅子店など、彼らの衣食住を支える職種の店がこの道に多かったのである。

もう一つ驚くのは、日本人の店の多さだ。看板だけでもわかるが、1920年のThe Japan Directoryという日本在住外国人名簿の横浜の箇所で、この写真で見える範囲の地番で店舗記載数を調べてみた。そうすると、中国人が12店に対して、日本人が倍以上の26店である。中華街であるのに、日本人のほうが多いのだ。実は横浜の中華街には明治の頃から、家族や隣人として、日本人が暮らしていた。多くの現地社会の人びとが中国人とともに生活をしていたという点は、横浜中華街の歴史的特徴であろう。この点をさらに探求していこうと考えている。

 

〇「横浜中華街といえば、歴史!」をめざして

一般的に「横浜中華街」と言われてまず頭に浮かぶのは、中華料理であろう。この常識を少しでも変えられないかと、日々、あがいている。横浜中華街と華僑の存在を理解するのは、歴史が重要だと考えているからだ。そこで、観光や食事で中華街を訪れた人が、気軽にこの街の歴史に接することのできる仕掛けづくりに取り組んでいる。自らの研究成果の発信、社会的還元であるが、具体的には、案内石碑の改修と歴史観光のサイト作りである。どちらも文化庁の横浜開港資料館を中心とする文化観光拠点計画の一環で、横浜中華街発展会協同組合とともに行っている。

朱雀門と南門シルクロード 2023年3月 朱雀門の案内石碑2023年3月
こい旅横浜中華街

こい旅横浜中華街

写真1の通り、現在の南門シルクロードの入口には朱雀門が建ち(写真2)、門の下には案内石碑が設置されている。従来は周辺地図と牌楼の説明だけであったのを、写真1の歴史画像を横60㎝ほどに引き伸ばして焼き付け、解説を加えて改修した(写真3)。ささやかな試みではあるが、その場所に立ち止まった人が、その場の歴史を感じ取り、昔の写真の中に迷い込むように、タイムトリップを楽しんでいただければありがたい。現在までに玄武門(北門)、延平門(西門)の案内石碑を改修し、近々、朝陽門(東門)の脇にも新設する。

 

もう一つ力を入れているのは、歴史観光サイト「こい旅横浜・中華街編」である。「街に恋して、あなたに恋して、歴史に出会う濃い旅を。」というコンセプトで、横浜開港資料館と中華街の9か所を選んだ。それらの場所を巡りながら、動画や今昔の写真を楽しんだり、クイズに挑戦したりしながら、中華街の街と歴史に親しむ内容となっている。「横浜中華街といえば、歴史!」をめざし、2023年4月中旬に始動する。是非ご活用いただきたい。

写真1 横浜中華街(現南門シルクロード) 1920年頃 所蔵:伊藤泉美

写真2 朱雀門と現在の南門シルクロード 2023年3月 撮影:伊藤泉美

写真3 朱雀門の案内石碑 2023年3月 撮影:伊藤泉美

写真4 「こい旅横浜・中華街編」トップペイジ(https://koitabi/yokohama/ )