東アジアにおける人、モノ、情報の移動
19世紀半ば以降、フィリピン諸島に渡航する閩南出身者の数は爆発的に増加する。
そうした人たちの多くは、晋江や南安、石獅を出身地とする閩南語の泉州方言を話す人たちが多いが、厦門や漳州を出身地とする人たちも3分の1ほど存在する。
写真は、セブで河東鐡業を営む薛偉傑氏の祖先の出身地、漳州・山重村である。
山重村だけではなく、晋江や南安、石獅の村々には、新大陸由来の穀物・野菜を見かけることができる。
奥がトウモロコシ、手前が「番薯」と呼ばれるサツマイモである。
新大陸を原産とするサツマイモは、フィリピン諸島には大航海よりも前にすでにポリネシアから伝わっていたようである。
しかし、サツマイモがルソン島から福建に伝わるのは、1571年にフィリピン諸島のスペイン統治が始まってからであると言われている。
「スペインが輸出を禁止していたサツマイモの苗を、禁を犯して帆船のロープに隠して持ってきた」という記録が存在する。
だがマニラのスペイン政庁は、サツマイモの輸出を禁止していなかったし、それどころか「メキシコでもみられるkamoteというイモがフィリピンでもみられる」と鉱山を探しに諸島を探索する過程で記録している。
サツマイモは、金鉱脈、銀鉱脈と違ってスペイン人(バスク人も多かった)の関心とはなって来なかったようである。
トウモロコシは、現在、セブ島の一部で主食となっているが、新大陸からもたらされた当初は「雑草」扱いされていたらしい。
サツマイモ、トウモロコシは、デンプン質を多く含み、福建の食糧事情を大幅に改善し、人口増に寄与した。
そのなかから海外の貿易に携わる人たちも出てくるのである。
サツマイモの入ったお粥は彼ら(女性は少なかった)にとって故郷を思い出させる食の一つとなっている。
山重村の薛氏の廟。
薛氏の一部は、ここから山を越えて厦門禾山にまず移住する。
「禾山・安兜」はセブ市の薛氏の一族が決して忘れてはならないとする故郷の地名である。
禾山からは、セブで大きなビジネスを営む商人が多く出ている。
(以下次号)