施餓鬼荒らし(2)
タイ国の華僑華人文化は、地域的にはマレー半島部分(特に西海岸)とそれ以外のインドシナ半島部分(バンコクなど)に大別できる。前者はペナンなどから移住した福建人、後者は潮州人を主体とする。この違いが施餓鬼にも反映されている。
バンコクでは旧暦七月の施餓鬼を潮州語で施弧(シッコウ)と呼ぶ。タイ国では華僑華人のホスト社会への同化傾向が顕著であり、中国語を第一言語として日常的に用いる人は中華街ですらほとんどいない。そのため施餓鬼にもタイ語の呼び方がある。テー・クラチャート、あるいはティン・クラチャートという。それぞれ「籠をぶちまける」「籠を捨てる」という意味である。籠というのは、寄付された食べ物や日用品のことである。バンコクの施餓鬼が生者への施しを重視するものであることを反映した言葉である。プーケットでは街区ごとに施餓鬼を行うが、バンコクで施餓鬼の会場となるのは主に大乗仏教寺院、廟、善堂などである。
バンコクの施餓鬼は、大きく分けて二つの部分から構成される。無縁死者(孤魂と呼ばれる)の供養と貧者への再分配である。施餓鬼シーズンに廟に行くと、紙製のお供え物と日用品が山と積まれ、参拝者の寄付を待ち受けている。紙製のお供えには、金紙や銀紙で作った円錐形の山(金山-キムスア-と呼ばれる)や、紙製の長持、紙製の豪邸やベンツやスマートフォンなどがある。廟の受付でこれらを購入し、自分とご先祖の名前を書いた紙を貼りつけ、施餓鬼の最後にまとめて燃やすと自分の先祖に届くという理屈である(金山はあの世で使えるお金になる)。要するに紙製の供物はすべて死者のためのものである。それに対し日用品は生きている人のためである。お米、即席ラーメン、飲料水などがその中心となる。これについても廟の受付で購入し、自分の名前を書いて廟に預ける。これら日用品は、施餓鬼の終了時に近隣の貧しい人々に分け与えられる。そのため、施餓鬼が行われる日には、廟の前に配布品をもらいに来る人が長蛇の列を作ることになる。施餓鬼の祭壇に置かれる料理は、死者のためでもあり生者のためでもある。施餓鬼のあいだは無縁死者の霊のために供えられ、終わると近隣の貧しい人たちに配られる。
写真1:金山をかたどった即席ラーメンとインスタントコーヒー。福蓮宮にて
写真2:孤魂を大鍋料理でもてなす。義徳善堂にて
祭壇には地獄の王が祀られるのはプーケットと同じだが、バンコクでは大士爺(タイスーイヤ)と呼ばれることが多い。その前に、無縁死者たちをもてなす料理が並べられるのもプーケットと同様である。ただし行事全体の力点の置かれ方はプーケットとバンコクで大きく異なる。プーケットの場合、夕方になると会場のまわりに出店が並び、特設ステージの上では歌謡ショーや演芸ショーが披露(名目としては神霊に奉納)されるが、読経が行われるのは最初と最後だけである。それに対しバンコクでは、日中に長時間かけて行われる読経と、それに引き続く物品配付がメインとなる。
写真3:大士爺。天華医院にて
バンコクで施弧を司式するのは、大乗僧か俗人読経師である。タイ国にはベトナム系、中国系の公認大乗仏教教団が存在するが、その大部分はバンコクに集中しており、そこでの大乗僧たちが施弧のニーズに対応する。俗人読経師は正規の僧侶ではないが、読経や死者供養儀礼のパフォーマンスを請け負う人たちで、多くの場合念仏社、あるいは仏教社などを名乗っている。ほとんどの廟や善堂の施弧は一日で終了するが、一部の大乗仏教寺院や善堂は複数日にまたがって実施する。その場合は夜に潮劇が奉納されるが、それを除けば娯楽的要素は総じて希薄である。
写真4:在家念仏社によるパフォーマンス。義徳善堂にて
バンコクでは、施弧の日が近づくと、紙にその旨を書いて貼り出す習慣がある。ただし実施日は、ごく一部の例外を除き旧暦で毎年固定されている。そのため、各地の廟でそれぞれ旧暦七月何日に施弧を行うかがわかれば、その時期をねらって施餓鬼荒らしをすることも可能である。実はバンコクでの施餓鬼カレンダーにいちばん詳しいのはスラムの住民である。彼らは毎年どの日にどこの廟で施餓鬼の物品配付があるのかについて情報を共有している。その意味では、スラムの住民こそが施餓鬼荒らしのチャンピオンと言えるかもしれない。
写真5:施弧の掲示。関帝古廟にて