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土地公廟から見る日本最南端の台湾系移住民社会

 石垣島には「華僑会」と通称されている台湾からの移民やその子孫たち(以下、台湾系移住民)のための組織がある。2022年12月に華僑会が管理している「土地公廟」で台湾から職能者たちを招いて「安座儀礼」(新しい廟に神々を正式に迎え入れる儀礼)が行われた。

図1 石垣島福徳廟(土地公廟)(撮影:筆者 2022年12月20日)

図2 職能者たちによる儀礼(撮影 筆者 20221218日)

 この日本最南端の八重山の台湾系移住民たちの歴史は20世紀初頭から始まった。当初は日本統治下であったため、ある種の国内移動として西表の炭坑で働く労働者や農業関連の移民が入植した。第二次世界大戦後、彼らは日本籍から外されたが、その後も技術導入などの名目で八重山へやってくる人も少なくなかった。日華断交の前後には多くの人々が日本国籍を取得しており、現在は日本社会に溶け込んでいる。

 さて、漢民族系の移住民たちは、開拓した土地に定着していく過程で、集落の守護神としてまず土地公を祀ることが多い。ただし、石垣島の名蔵・嵩田地区に入植した人々が他の場所と違って特徴的だったのは、当初土地公は神像がなく、また専用の施設もなかった点だ。その代り、現地の人々の聖地であった名蔵御嶽を借りて儀礼を行ってきた。なぜ御嶽で土地公祭をやるようになったのか。先人たちの研究には諸説紹介されているが、それらや筆者が現地で聞いたことなどを総合すると、差別や偏見に苦しめられた移民たちの心の拠り所としての信仰心と、地元との融和と言う二側面があったと思われる。豚を丸ごと供えることから「豚祭り」とも呼ばれてきたように、地元民とは異なる台湾系移住民の信仰実践は、地元民と台湾系移住民との差異が可視化される機会であった。他方で、儀礼ではツカサと呼ばれる地元の女性宗教的職能者が祈祷をしていたようだ。また、当日の参加者の中には、地元の市長や有力者も多数参加していたようで、台湾系移住民と石垣島の人々との関係構築の機会としても有用だったと思われる。

図3 名蔵御嶽(撮影 筆者 20211127日)

 土地公祭は1930年代から始まったらしいが、実施には紆余曲折もあり、主催する主体が変わったり離脱者が出たり、様々なことがあったようだ。また、1980年代初頭の窪徳忠先生の調査によれば、その頃には「御嶽に生物を供えられては困るので」、別の場所に土地公廟を建立すべきという議論もあったらしい。2010年代終盤から、筆者はその動きが現実化する過程を目にすることになった。

 新しい土地公廟の土地は、ある台湾系移住民の方が個人で神を拝んでいた場所を華僑会に提供したものだ。ちょうどコロナ禍になってしまったので、台湾から築廟のための建材などを仕入れることができなかったが、亜熱帯性の樹木に囲まれて手作りの赤い色が映える廟が建立された。本来であれば、その時に台湾から職能者を招いて安座儀礼もできればよかったのだろうが、2021年に一足先に土地公祭は名蔵御嶽から移して行われるようになった。

 今日では台湾系の第一世代が非常に少数になり、また日本に帰化した人々がほとんどになった。そうであっても、やはり、年長者を中心に台湾系の出自を持つことを大事にして自前の文化を表象する施設を希求する気持ちも強いのだろうと筆者は推測している。台湾系の出自を持つことはかつて差別や偏見につながるものだったかもしれないが、今日ではむしろそれは自らの依って立つ誇らしいものとして守っていきたいという気持ちなのではないか。とはいえ、日本社会に同化し、日本語や日本文化になじんで生活するようになった若い世代に台湾の文化をどのように伝えていくのかは難しい課題でもある。土地公廟の土地を提供した方も、家族レベルではなく、より開かれた形で台湾系の宗教信仰が存続することを望んでいるようだ。また、ある夫婦は、子供がいないため、自宅で祀っていた神を土地公廟に合祀することにしたという。土地公廟は、個々人の力で維持することが難しい文化を、同じルーツを共有する人々が共同で守っていくことで存続の道を模索していく場として機能していくことが期待されているようだ。